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お休み處  桐風庵

お休み處  桐風庵

日常生活

時間
とかく人は時間があると何かをしようとします。手持ち無沙汰なんでしょうか。なにかをしないともったいないと思うのでしょうか。寝る間も惜しんでやるほど大事なことってそんなにありますか?私は寝てる時間が一番幸せですけど。「忙しい」という字は心を亡くすと書きます。心をなくしたままでは自分の様をみつめることができませんし、他人を思いやることもできません。何もすることがない時は何もしなくていいです。のんびりと暇な時間を楽しみましょう。2009.7.27





先祖供養
お盆は先祖がアチラの世界から我が家へ帰ってくる日で、お彼岸はコチラから彼岸の入口であるお墓に参る日です。これは日本独特の風習でありまして、古くからある祖霊信仰と仏教が融合したものと思われます。元々の仏教では霊界も霊の存在も否定しています。それは、お釈迦様が涅槃経の中でちゃんと述べております。テレビで先祖の霊が見える、或いは前世の霊が来てるなどというスピリチュアルの人がおります。私は霊というものを見たことがないので何とも言えません。あの人は嘘をついてるわけではなくて本当に見えるのでしょう。でもそれは物体として見えるのではなくて、おそらく相手の深層心理を映像として見るのが得意な人なのではないかと私はみています。あの人の人生相談のイイところは相手を不安にさせることなくアドバイスすることでしょう。私も好きでよく観てます。なかには霊感商法まがいに不安に陥れる占い師や霊能者も多いですけど。人は一旦死ぬと大自然、宇宙に溶け込みます。ですから元の姿や形が残ってるはずがありません。これが「無」です。
私が思う一番の先祖供養。それは自分が幸せになることではないかと思っています。死んだら何に生まれ変わるか?自分が死んだら自分と同じか、または近い遺伝子、DNAである自分の子孫として生まれ変わると考えるのが最も考え易くはないですか。自分が死んでイタリアで生まれたりフランス行ったりとかは考えにくいです。ですから先祖の誰々は今の自分なのです。いま自分が幸せだと感じてる人は先祖に感謝しましょう。毎日手を合わせ、良い道筋をつくってくださったご先祖様に心からお礼をいいましょう。そうでない、自分は不幸だと感じてる人は毎日手を合わせ幸せになることをご先祖様に誓いましょう。そして幸せになったことを報告しましょう。自分が幸せになること即ち先祖が幸せになることです。自分自身が幸せであるというその功徳を先祖に回向することが本当のそして一番の先祖供養ではないでしょうか。2009.8.5





キレる
最近、キレる子供のことが話題になります。キレるといっても頭が鋭いとか冴えてるとかならいいことなのですが、言うまでもなく、この場合のキレるとは脳の血管が切れて暴走することです。プッツンするともいいます。キレるのは何も子供だけでなく大人、老人でもキレてるのをよく見かけます。いい歳コイた大人が、或いは何もかも分別がつき人間ができあがってるはずの年寄りがキレるというのはどういうことなのでしょう? これもやはり、心にゆとりがないからでしょう。少しも待つことが出来ない。相手や周りを考えることが出来ない。自分のことしか考えられない。狭い世界で生きてるんですね。ゆとりがないんです。車のステアリングにもあそびが必要であるように、心にも余裕を持ちたいものです。なぜ心に余裕がないのでしょうか? 忙し過ぎるんです。あれもやらなきゃこれもやらなきゃと頭で考えすぎなんですね。情報が多くて頭でっかちになってます。その分、肚が据わっていません。どうも最近、太っ腹な人物が少なくなってきたように思われます。デッカくなった頭を剪定して肚を太くする必要があるのではないでしょうか。その為にも時には情報を整理して、または遮断して頭で考えることをやめ、深呼吸して肚に空気をいっぱい送り込んで太くしましょう。現代は情報化社会で、情報を制する者が仕事でも人生でも勝利を掴むなんて言われてます。それはその通りなんですが、肝心要の「心」が失われてしまっては元も子もありません。大事なのは「心」「ハート」。日本人には「肚」の方がしっくりきますね。そもそも年をとったからって人間がデキてくるもんなんでしょうか? 何歳になったから物事わかるってもんでもないでしょう。世の中には年寄り絡みの事件がいっぱいあります。私は人間なんて死ぬまで未熟者だと思ってます。いくら悟り澄ましたような老人でも何かの拍子にプッツンします。ですから生涯修行なんですね。2011.9.8





殺生
「無益な殺生はするな」などと言ったりします。生き物を無駄に殺すなということです。人間が生きてゆくためには何らかのものを食べなければなりません。その為には動物や植物を殺すことになります。大昔は狩りをして自分で獲物を殺してました。今は猟師や屠殺場の人、農業の人が代わりにやってくれてます。直接には自分で手をかけてはいませんが口に入れる以上、間接的に殺していることに変わりはないのです。ですから食べ物を粗末にしてはいけませんね。残したり苦しくなるほど腹いっぱい食べたり。野生の動物は最低限の狩りしかしません。自分と家族の腹が満たされればそれ以上殺したりはしないのです。人間くらいでしょう必要以上に殺生するのは。あげくには戦争という大量殺戮までやってしまいます。無駄で愚かなことですねえ。無益な殺生はいけない。では有益な殺生ってあるのでしょうか?ありませんねえ。殺生は全て罪深いものです。ナントカ真理教の尊師は、殺してやった方が世の為その人の為になるなどとホザいておりましたがとんでもないことです。また、わたしは生き物を殺したことなんてありませんなどと言ってる人でも一歩外に出れば蟻を踏んずけて殺してるかもしれませんし、蚊を殺したことがない人でも寝てるとき寝返りをうって何かの虫を殺してるかもしれません。人は知らず知らずのうちに罪を犯してるもんなんです。謝らなければなりません。ですから一日たりとも手を合わせることを怠ってはいけないのです。2011.11.5





身口意の三業
実際に自分の身体で何かをして生じる業を身業と言います。暴力で誰かを傷つける、或いは困ってる人の手助けをする等ですね。口から出る言葉によって相手を罵ったり褒めたりすることによって生じる業が口業です。言葉による罵りやイジメは軽く見られがちですが身体の暴力と同等です。心の中であいつをイジメてやろうとか助けてあげようとか思うことによって生じる業が意業です。憲法では思想信条の自由が認められておりまして心の中でどんな凶悪なことを考えても実行しなければ罪に問われることはありません。あいつを殺してやろうとか銀行強盗してやろうとか。思うのは勝手です。思想の自由が保障されてます。ですが仏法上では思うだけで一つの行為とみなされます。罪の重さは同じということです。よくよく注意しなければなりません。2016.6.13





女性とは?
お釈迦様は女性をどのように考えていたのでしょうか。「婦女の求めるところは男性であり、心を向けるところは装飾品化粧品であり、拠りどころは子供であり、執着するところは夫を独占することであり、究極の目標は支配権である」だそうで。大昔にお釈迦様がそう言ったんですからこれはもう永久不変の真実と言えるのではないでしょうか。世の殿方はよくよく肝に銘じねばなりませんな。2016.6.13





友人
「善い人々と交際せよ。悪い人々を愛し善い人々を愛することなく悪人の習いを楽しむ。これは破滅への門である」「善い友人と付き合うことは成功繁栄のための一つの条件である」「恥じることを嫌うと言い、我は汝の友であると言いながら、なしうる仕事を引き受けない人は我が友にあらずと知るべきである」「諸々の友人に対して実行が伴わないのに言葉だけうまいことを言う人は、言うだけで実行しない人であると賢者は知り抜いている」「友人に対しては誠実に責任感を持って務めを実行せよ。真実の友情は何ものによっても害われえないものである」-シンガーラへの教え- より 2016.6.13





貪瞋癡
日常生活で気をつけなければならないことに貪瞋癡の三毒があります。これだけを注意しながら生活するだけでも充分修行になります。貪(とん)むさぼること。欲しがり過ぎてはいけません。生きる上で必要な食欲性欲を含め全ての欲があてはまります。少欲知足。次に瞋(じん)怒り。妬み。恨み。つまり負の感情。誰かに嫌なことされても我慢する。とはいってもね。修行途上の身では簡単ではありません。下手に我慢するのは精神衛生上よくないですね。それにその時はヤリ過ごしたとしても後から思い出して悔しい思いをするのはもっといけません。自分は修行中の身なんだ死ぬまで未熟者なんだということを自覚して最小限の対応する必要があります。嫌なことを言われたりされたりした場合、その場で相手に、言われたことを繰り返し、されたことを再現して表明し、そのことが気にくわないとはっきり言って立ち去る。そうすると喧嘩にならずに自分の気持ちを伝達できます。要は相手に反省してもらい自分の腹の虫が治まればいいわけです。三つ目が癡(ち)無知。愚かさ。正しいものの見方ができない。道理に沿った行いができない。ので失敗する。ので道に外れる。まずは自分の馬鹿さ加減を知ること。これら三毒を失くせればいいんですが容易じゃないですね。よっぽど修行を積んだ高僧でもない限り(高僧が本当に克服してるかどうか)我々凡人は三毒の克服を頭の隅に置いて生きるだけでも自ずから結果は違ってくるのではないでしょうか?2023.1.26





身口意の三業 その2
業とは行いということです。行いは善いに越したことはありません。善行を積むなんて言い方をします。人が見ている所だけで善行するのを偽善と言います。人が見ていない所で行うのを陰徳を積むと言います。人が見てなきゃついついズルしたりサボったりするもんです。お天道さまが見てるという感覚を持ってる人はけしてしませんが。我々凡人は悪さとまではいかなくても善くない行いをしがちです。人間だもの。「身」の行い「口」の行いで善くないことをしそうな時はまず深呼吸します。10秒間。その間にこれはやっていいことなのか言っていいことなのかを考える余裕をつくります。大抵の場合これで収まります。問題は「意」です。思うことはなかなか止められません。もし善くないことを思ったり考えたりしそうな時はどうするか? そこで南無妙法蓮華経または南無阿弥陀仏またはマントラです。マントラのことはよくは知りませんが相応しい言葉があるのでしょう。これらの言葉を心の中で唱えることで途中まで思った善くない「意」を打ち消して浄化することができます。2023.2.16





反省行
あんなことしなきゃよかった、あんなこと言わなきゃよかったと今になって思うことは多々あります。特に若い頃しでかしたことは穴があったら入りたいと思うような恥ずかしいことばかりです。夜中に目が覚めて冷や汗をかくことすらあります。反省する事は大事です。だけど後悔ばかりして気持ちが後ろ向きでは精神衛生上よくありません。私はこのように考えるようにしてます。「あんな時もあったな。あの頃を反省できるくらいに自分も成長し進歩したんだな」と褒めてやります。これで少しは気が楽になります。仏教は反省行です。何万年何億年かけて薄皮を剥がすように浄化する修行です。究極は透明に成ることです。2023.3.10


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